私たちの教会は日本同盟基督教団に所属するプロテスタント教会です。

長野めぐみ教会は1989年10月に長野市三輪で教会の働きが始められ、2016年に現在の東和田に移転しました。この地域に根差した教会を目指していきたいと願っています。

住所

〒381-0038

長野県長野市東和田908-16

電話番号

026-244-7505

※《お願い》移転前の電話番号でおかけになる方がいらっしゃるようです。先方のご迷惑となりますので、電話をおかけの際はお間違えのないようにお願い致します。

牧師:山岸 直生

教会までのアクセス

※8月1より、長電バスの平林線の日曜運行が再開となりました。以前よりも減便となっておりますのでご注意ください。

YouTubeにて、毎週日曜日午前10時半~、礼拝のライブ配信を行っています。
教会にお越しになれない方々はぜひご利用ください。
下記の動画からご覧ください。
当日の5分前前後から視聴可能です。


※ライブ配信終了後は、直接、YouTubeのチャンネルからご視聴ください。過去動画として視聴可能です。

またはYouTubeのページから「長野めぐみ教会」で検索

※下記にチャンネルのリンクもあります。

YouTube内でチャンネル登録をしていただけると次回から探しやすいです

長野めぐみ教会YouTubeチャンネルリンク

<教会の予定>

〇11月17日(日)

午前9時半~

教会学校(ジュニア・チャペル、青年成人科)

午前10時半~

主日礼拝・子ども祝福式

午後12時半~

教会バザー


〇11月20日(水)午前11時~

聖書の学びと祈り会


〇11月22日(金)午前10時半~

聖書の学び会


〇11月24日(日)

午前9時半~
教会学校(ジュニア・チャペル、青年成人科)

午前10時半~

主日礼拝(賛美礼拝)

※詳細は下記の案内をご覧ください




長野めぐみ教会Facebook・Instagram

聖書について

「聖書」とは?

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

(新約聖書 テモテへの手紙二 3:16)


1.構成

<旧約聖書>

モーセ5書・・創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記


歴史の書・・ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記Ⅰ・Ⅱ、列王記Ⅰ・Ⅱ、歴代誌Ⅰ・Ⅱ、

エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記


詩書・・ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、
雅歌


大預言書・・イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、

エゼキエル書、ダニエル書


小預言書・・ホセア書、ヨエル書、
アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、
ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、
ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書、


<新約聖書>

福音書・・マタイの福音書、

マルコの福音書、ルカの福音書、

ヨハネの福音書 


使徒の働き


パウロ書簡・・ローマ人への手紙、

コリント人への手紙Ⅰ・Ⅱ、ガラテヤ人への手紙

エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、

コロサイ人への手紙、

テサロニケ人への手紙Ⅰ・Ⅱ、

テモテへの手紙Ⅰ・Ⅱ、テトスへの手紙、
ピレモンへの手紙


ヘブル人への手紙


公同書簡・・ヤコブの手紙、

ペテロの手紙Ⅰ・Ⅱ、ヨハネの手紙Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、
ユダの手紙

ヨハネの黙示録


 聖書はもともと一冊の書物ではありません。旧約聖書も新約聖書も、多くの書物から構成されています。旧約聖書は39巻、新約聖書は27巻の書物から成り立っています。39(さんく)・27(にじゅうひち)と言えば憶えやすいでしょう。

 聖書は40名もの著者によって書かれています。しかし、真の著者は聖霊なる神であり、聖霊が、著者の特性などを生かし、著者を通して記された神のことばです。


2.聖書は何故存在するか?

 神は私たちを愛しておられ、私たちに知ってほしいと願っておられます。しかし、無限であられる神様を、有限である人間は知ることが出来ないのです。そこで神様は、私たちにもわかる形でご自身をお示しになられました。

①自然啓示・・・全世界を通して

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)

②特別啓示・・・イエス・キリスト、聖書


3.聖書は神のことば

 聖書は神様を証する書物でありますが、それだけではなく、聖書そのものが神のことばであるのです。確かに聖書は人々の手によって書かれました。しかし、それらは聖霊の導きによって、神のことばとして書かれたのです。機械のようにという意味ではなく、著者それぞれの個性などが用いられながら記されました。

 もし聖書そのものが神のことばでないとすればどうなるでしょうか?自分の都合の良い部分だけが神のことばとなってしまうのです。聖書には神様の素晴らしい御業も記されていますし、知られたくないような人々の罪や失敗も隠さず記されてします。それらもすべて含めて「聖書」であるのです。


「神」とは?

1.神を礼拝する思い

 神とは、どのようなお方であるかということを考える前に、人間が神に対する思いというものを教えられずとも持っているという事実を考えたいと思います。科学の世界においては、人間と他の動物の遺伝子の構造に大きな違いがないと言われ、霊長類は人間と遺伝子の構造が大部分が同じであると言われています。そのため、人間も動物の一種であると考えられています。しかし、他の全ての動物と人間との決定的な違いがあります。それは、礼拝をするのは人間だけであるということです。それは、神が人間の内に、そのような思いを与えられているからです。

「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3:11前半)

 人間とは本来、神様を礼拝する存在として創造されたのです。


2.神は創造主

 全ての物質には必ず設計者がいると信じられています。数学や物理の法則も、人間が生み出したものではなく、もともと存在する秩序を後から人間が発見したにすぎません。それは数学者や物理学者も認めています。アインシュタインは「宇宙に存在する、計り知れない秩序に感動する」という言葉を残しています。秩序を保ち、複雑につくられているこの地球や私たち人間は、偶然に出来たものではなく、設計者がいるのが自然と思えるのではないでしょうか。

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)


「罪」とは?

「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマの人への手紙3:10b)

1.罪の基準

 私たちにとって「罪」とは、どのようなイメージがあるでしょうか。「殺人」「強盗」…世の中の多くの人は、このような刑法的なものを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、聖書では「正しい者は一人もいない」と語られています。神の言われる「罪」とは一般的に考えられる罪の基準とは違うところにあります。もちろん、殺人であるとか強盗であるとかいうものが、神様の基準にあっては罪とはならないということではありません。聖書における「罪」という言葉の意味は「的外れ」ということを意味します。神の基準は人間が考えるよりもはるかに高いところにあるのです。そして、その基準(的)に照らし合わせるならば、すべての人が生まれながらにして罪人(的外れ)であると言えるのです。それはなぜでしょうか。


2.神との関係

 なぜ、人が生まれながらにして罪人であるのかというと、人の神との関係が正しいものであったか、そうではなかったかということなのです。「私は嘘ぐらいはつくけど、人を殺したこともなければ、強盗もしたことがない。」…と、この世の価値観を基準にすれば、多くの人はそのように思うのが自然です。しかし、そのような具体的なものは人の内にある罪の結果なのです。つまり、罪を犯したから罪人となるのではなく、人間はもともと罪人であるから罪を犯してしまうのです。人は本来、神と交わりのできるものとして創造されました。そして、神様とともに歩んでいくものとして創られたのです。(創世記2章)しかし、人は神から背をむけ自己中心的な歩みをするようになってしまったのです。(創世記3章)その結果、神との交わりが断たれ、神の望む行ないができなくなっていってしまったのです。具体的に現われてくる目に見えるものは、神を知らない(的外れな)歩みをしている結果なのです。

 つまり、すべての人々は、たとえ、行ないに現われてこなくても、神を知らない歩みをしているという罪人であるのです。子供が悪い事をしたときに「嘘をついてごまかしなさい」などと教える親がいるでしょうか。また、何か嫌な事をされたときの「憎たらしい…」、あるいは、それがひどくなると「殺してしまいたい…」などとなったりします。このような誰にも教わったわけでもない、生まれながらの感情は人間の内に多く存在します。人が生まれながらにして罪人であるからです。


3.何故、罪を犯すか?

1)誘惑

 ナルニア国物語の「ライオンと魔女」に4人の子どもたちが登場します。その中でで、妹ルーシーの後を追ってナルニア国に足を踏み入れたエドマンドは白い魔女からもらったターキッシュ・ディライトというお菓子に夢中になります。食べれば食べるほど欲しくなるという禁断のお菓子です。エドマンドはこのお菓子と、白い魔女の甘い言葉にだまされて、兄妹を裏切ることになります。ナルニア国物語の作者C.S.ルイスはクリスチャンであり、神学者でもありました。この出来事は、人間が罪に陥りやすい原因である「誘惑」を示唆しています。

 人にはさまざまな弱さがあります。私達にはそれぞれ弱さがあり、誰一人、完璧な人間は存在しません。人の内に弱さがある以上、その弱さに対しての誘惑が必ずあります。そして、普段は自らの強い部分であると思えるようなところにさえ弱さが潜んでいることもあります。ですから、私達は、自分の弱さは何であるかということを知っておくことは、とても大切なことです。

2)自己義認

 人が善悪の知識の木の実を食べ、神に背を向けてしまった時、今まで神の基準で歩んでいた人間が、自らの内に善悪の基準を造ってしまい自己中心的な判断をして自らを正しい者としてしまうようになったのです。

 今日の世界はどうでしょうか、聖書が価値基準ではなく、みんな行っていることが正しいのだと勝手に自分の行為を正当化したり、それとは逆に自分が正しいと思って好き勝手に行うことが、たとえまわりに迷惑をかけていてもそれでいいとされたりします。多くの罪はこの自己義認…つまり、「自分は(自分たちは)正しい」という自己中心的な思いからきているといえます。私たちは、この自己中心という思いと戦っていかなくてはなりません。

 このように、人には罪の性質というのがあります。神は正しい方であり、決して罪を認める事ができない方です。しかし、人が全て生まれながらにして罪人というならば、どうしようもないのでしょうか。決してそんなことはありません。


「福音」とは?

「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3:16)

1.神の愛と義

 神は私たちを愛しておられ、個人的に神を知ることができるように、私たちを造ってくださいました。けれども人には罪があり、神との間に深い断絶があります。そのため、神を知ることも、神の愛を体験することもできなくなってしましました。(ローマ人への手紙3:23、6:23)そのような神との関係を回復するには私たちの内にある罪を取り除く必要があります。


2.イエス・キリスト

  私たちの罪のために、神が用意してくださった唯一の解決が、イエス・キリストです。神の子であるイエス・キリストがこの地上に人となって来られ、私たちの罪の身代わりとなってくださいました。それが十字架での身代わりの死です。私たちは、イエス・キリストを通して、神を知り、神の愛を体験することができるのです。(ヨハネの福音書14:6)


3.罪からの解放

 私たちは、それぞれ個人的に、キリストの十字架の身代わりの死が私たちの罪のためであったことを受け入れ、イエス・キリストを、罪からの救い主、人生の導き手として迎え入れる時、神はその人の罪をすべて赦してくださり、神の子とされ永遠のいのちの祝福にあずかることができます。そうすることで、私たちは個人的に神を知り、神の愛を体験するようになるのです。(ヨハネの福音書1:12)


4.今も生きておられるキリスト

 キリストは十字架にかかられ死なれましたが、死で終わりになったのではなく、三日目に罪に勝利してよみがえられました。この復活を祝うのがイースターです。キリストは死んでいる神なのではなく、復活され今も生きておられ私たちと共におられるお方です。


「聖霊」とは?

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

(ヨハネの福音書14:26)

1.聖霊のイメージ

 一般的に“聖霊”というと、何か特別なエネルギーを与えたり、超自然的現象を起こしたりするものだというイメージがあると思います。半分は正解です。聖霊は不思議な業を行うことのできる存在です。何故ならば、聖霊は神であるからです。しかし、半分は不正解です。聖霊の目的は、そのようなことではないからです。

 教会は三位一体の神を信じます。つまり、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、そして聖霊なる神です。しかし、父なる神、子なる神はイメージしやすく、受け入れやすいのですが、聖霊なる神は、なかなかイメージがしにくいものであるかもしれません。その為“聖霊の働き”というものを目に見える不思議な現象を起こさせる存在であったり、逆に、現代は初代教会時代のような、不思議な現象は起きないから、聖霊の働きは終わったのだと、誤って考えられてしまうことがあります。私たちは、聖霊の働きというものをイメージで考えるのではなく、神のことばである聖書を通して知りたいと思います。


2.聖霊はキリストの約束

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

(使徒の働き1:8)

 聖霊は、イエス・キリストの約束によって与えられました。キリストが、天に帰られる時、ご自身の代わりとしての助け主である聖霊をお与えになることを弟子たちに約束されたのです。そして聖霊が一人一人の内に与えられました。そして彼らは聖霊に満たされ、大胆にイエス・キリストの福音を語りはじめたのです。使徒の働きは、その聖霊の働きによって福音が広がっていき、教会が建て上げられていく過程が記されています。私たちも聖霊の働きによって、神に従っていく力が与えられ、大胆に福音を伝えていくことができるのです。


3.聖霊は弁護者

 ヨハネ14:26の「助け主」という言葉には、「弁護者」という意味があります。弁護者の役割とは、告訴された人を弁護し、その人を守ることです。聖霊は、訴えられた人を弁護する存在であり、私たちがどのような耐えがたい状況においても私たちを助け、守り、新らたに踏み出していく力を与えて下さる方であるのです。私たちが困難に陥ったとき、自らの力ではどうしようもないことがあります。しかし、聖霊の働きを信頼し、委ねることによって、聖霊は私たちを助けてくださり、導いてくださるのです。


4.聖霊は真理の御霊

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネの福音書16:13)

 キリストは聖霊を「真理の御霊」であると教えています。私たちに神の真理を思い起させてくださるのです。私たちが聖書を読み、みことばにふれる時、そこから、進むべき道が示されたり、悔い改めるべき罪が示されたりします。それは聖霊の働きによるものです。また、みことばを読んだ時は何にも感じなくとも、日々の生活の中で困難に陥ったり、誘惑にあった時にふと、みことばが浮かんでくることはないでしょうか。それも聖霊の働きであり、私たちが悟るべき真理を思い起こさせて下さっているのです。そのことを考えると、日々、聖書を読み、みことばを蓄えることは大切なことであります。


5.聖霊は救いをもたらす

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」

(コリント人への手紙第一 12:3)

 このみことばは、私たちが聖霊の働きを最も実感することができるみことばであると思います。私たちの信仰は「奇跡を見たから信じる」というものであってはなりません。しかし、もし、神の奇跡を示せというならば、このみことばを挙げます。私たちが心の内でイエス・キリストを受け入れる時、自らの決断が伴います。そして、それと同時に聖霊の働きによって信じることができるのです。もっと言うならば、このみことばにあるように、聖霊の働きがなければ、救いを受け入れることができないのです。「私は父なる神も、イエス・キリストも信じているが、聖霊の働きがよくわからない」と思うならば、このみことばを思い出してみて下さい。イエス・キリストを信じているならば、そこはすでに聖霊が働いてくださっています。また、「自分には本当に聖霊が与えられているのだろうか…」と思う時、このⅠコリント12:3を思い出して下さい。イエスを信じているならば、そこには間違いなく聖霊の働きがあるのです。


「教会」とは?

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

(エペソ人への手紙4:16)

1.キリストにより

 教会とは、イエス・キリストによって導かれた人々の群れです。みなさんは、何をもって教会と認識するでしょうか?教会の建物、人々、牧師、雰囲気…などさまざまな要素があります。しかし、何よりも教会はキリストを信じる群れであるのです。


2.組み合わされ、結び合わされ、…

 私たちは自分の基準に合わさせようとしてしまう弱さがあります。しかし、各々には役割があるのです。この事を一言でいうならば、「賜物の違い」ということになります。人はそれぞれ、与えられている賜物が違います。そして、置かれている生活環境、たどってきた人生の道のり、そして、年齢や立場…といった具合に、礼拝にはさまざまな人々が集います。ある人にとっては一番良いと思えるような事も、他の人にとっては、そうでない場合があります。人間同士の横の関係のみで比べてしまったならば、そのことでつまずきや争いの原因になってしまいかねません。人との横の関係ばかりを比べるのではなく、「自分と神」という縦の関係をもって、自分は何をすることができるか考えることが大切であるのです。人と比べて自分も同じ事をしようと思うのではなく、また、他の人に同じ事をさせようとするのでもなく、自分自身に神が与えられているみこころ、そして役割は何であるかを求めていくのです。それがキリストのからだなる教会です。


3.愛のうちに建てられる

 今までに話してきたことに、この「愛」というものがすべてに関わってきます。教会がキリストに召された群れであり、キリストのからだであることを信じていくとき、時に戦いがあります、赦された罪人の集まりである以上、必ず起こる人間関係のトラブルです。そのようなときは、「この人も神に召されているのだ」という愛をもって受け入れることが求められます。互いに助け合うことも、互いの役割の違いを認め合い、愛を持って助け合っていくのです。